1.コラムを書いてくれませんか?
私が自分で書いたものを世に出す切っ掛けとなったのが、地域で発行されていたミニコミ誌への投稿依頼でした。
当時、私はとある経営者の集まる会の会員で、広報委員会に所属していました。広報委員会では、毎月、地区の活動報告や会員の会社の紹介を中心に紙面を作り、広く福島県内に配布していたのです。その会の理事会が終わった後で、ミニコミ誌の社長から声を掛けられたのです。
「不動産とお金に関するテーマでコラムを書いて欲しい」
東京海上日動の38カケ月に渡る研修を完走し、個人代理店として独立開業していた私でしたが、開業から1年ちょっと経ったときに、保険会社の支社長に「相談がある」と言われました。
「なんだろう?」と、思いながら会議室に行くと、法人の代理店を引き継いでくれないかという相談でした。
当時、保険業界は急速にデジタル化が進められていて、保険業務にはパソコンが必須の状況になっていたのです。
2.初めてのパソコン
ちょっと時系列的に遡りますが、私が初めてパソコンを買ったのは、平成6年か、7年の頃だったと思います。テレビでIBMのパソコンのコマーシャルをみて、ほぼ衝動的に欲しくなってしまったのです。
ただ、パソコンなどどこで売っているのか分からず(Googleもありませんから)、営業で町中を走っていたら、とある「パソコン・ショップ」を見つけて、入りました。
級に欲しくなったパソコンですから、知識など全くなく、お店の人の説明も分かったような分からないような(本当のところは分かっていない)、しかもいまのようにハードからソフトまで一体になっているパソコンはなく、店員さんに勧められて私が初めて買ったパソコンは、NECの98シリーズのFellowというモデルでした。
今でこそ、売っているパソコンはオールインワンで、最初から本体に何から何まで詰め込まれているのですが、当時、Fellowに備わっていたのは本体の躯体とマザーボードくらいで、メモリーも、ハードディスクも、モニターも、ソフトの全てを買わなければいけませんでした。
総額40万円以上で揃えたパソコンのスペックは、メモリーが11.8メガバイト、ハードディスクの容量は250メガバイト(だったと思う。間違ってるかも)。
いまにして思えば、おもちゃのようなスペックです。
だから私のパソコン人生は、パソコンを組み立てるところから始まったのです。組み上げて初めて電源ボタンを押して「ピボ!」という音が鳴って、ぶぅ~~んとブラウン管のモニタが映ったときには感動しました。
でもそこで終わりではありませんでした。
まだパソコンの中は空っぽ状態です。ソフトをインストールしなければなりません。
当時はWindows3.1が出た頃で、まだCD-ROMはありません。
ソフトは全てフロッピーディスクで、MD-DOSが3枚、Windows3.1が27枚くらいだったかな、それに一太郎が30枚、三四郎(マイクロソフトでいうExcel)が確か17枚。フロッピーを1枚、1枚、まるまる1日をかけてインストールしました。これが結構辛い作業でした。
初めてインターネットを使ったときのことも覚えています。
PV-VANというNECのネットサーフィンサービスがあって、「ネットサーフィン」の意味も分からず、Yahoo!を「やほー」と呼び、デジタルなのに、アナログ感満載の時代でした。
氣付いた人もいるかも知れません。私が最初に使ったワープロソフトは「一太郎」でした。WordやExcelは、かなり後からです。使ったのは。なので、小説「オブシディアンの指環」を書く際には、改めて一太郎を買いました。
3.社長就任
さて、時間軸を元に戻しましょう。
法人代理店を引き継ぐお話しです。
個人代理店で営業を続けても良かったのですが、やはり確固たる収入を得るためには、それなりの規模が必要です。私にとっても、先方の代理店にとっても悪い話ではないように思えたので、条件等を詰めるために代理店の社長と直接の話し合いを何度か重ねて、2007年の3月からお世話になることにしました。
私が合流した代理店は市内でも指折りの代理店で、顧客の数もそれまでの私の個人代理店など比較になりません。扱っている保険商品も自動車はもちろん、個人の火災保険、法人の火災保険、賠償責任保険や傷害保険、あるいは労災保険などなど、多種多様に渡っていました。
入社しておよそ半年の間、法人代理店の業務をからだに染み込ませて、2007年の10月に社長交代をしました。毎日毎日、辛くていつ辞めてもいいと思っていた住宅メーカーのサラリーマンから、雇われ社長とは言え、一企業のトップになったのです。
4.中小企業家同友会への入会
なってみて初めて分かるのですが、社長という役職は孤独です。
個人代理店でも社長は社長じゃないか。そう言われそうですが、個人代理店の場合には、自分一人ですが、会社には社員がいます。社員とその家族の人生を背負うのが社長です。
何でも自由に出来て良さそうですが、責任という重圧が重くのし掛かります。それに傍目で見ているほど、社長が何でも出来るわけではありません。
そんなとき、とある法人のお客様から紹介されたのが、中小企業家同友会でした。
中小企業家同友会は全国組織で、福島県にあるのは、福島県中小企業家同友会で、私が加盟したのはいわき支部。会員みんなで、いい会社を作ろう、いい経営者になろう、いい経営環境を作ろうというスローガンを掲げ、みんなで勉強しようという会でした。
はじめは何も分からない状態でしたが、入会したからには会の行事には積極的に参加しましたし、入会すると何か委員会に所属しなければならないらしく、当然のように私は広報委員会を希望し、承認されました。
5.広報委員会での活動と青年経営者全国交流大会
広報委員会では支部の「浜風」と県の「同友ふくしま」という広報誌を発行していました。県内の支部の活動報告や新加入の会員の紹介、あるいは会員の企業紹介などを誌面に起こしていたのです。
面白かったのは会員企業の紹介でした。実際に会員企業を訪問し、工場見学をさせていただいたり、会社の創業からこれまでの様々なご苦労話を聞かせていただくことが出来、同友会の本流の勉強とは別に、大変勉強になりました。
また同友会は全国組織ですから、年にいくつかの全国大会があります。その一つに青年経営者全国交流大会というのがあり、毎年、全国の都道府県が持ち回りで開催していました。
当時、いわき支部から参加する会員がいないと事務局から聞かされていた私は、岩手県盛岡市出開催される大会から参加しました。そして翌年の北海道帯広、また翌年の島根県松江市で開催された大会に参加しました。

いずれもいわき支部からの参加は私一人で、でも逆に一人なので、全国の他の支部の会員さんの中に入り込みやすく、多くの方と交流することが出来ました。
そして、4回目の東京での交流会に参加を申し込み、当日、朝から車で東京に向かっている途中で、大きな事故が発生したとの連絡を受けて、急遽参加を中止し、いわきに戻りました。
この東京開催の交流大会の後から、いわき支部からも参加する人が増えたようで、逆に私は参加を見送るようになりました。
6.理事への就任
入会して2年目には、会の理事に推薦されて理事となり、広報委員長を務めさせて頂きました。理事となると、当然に支部の理事会に出席することとなり、会の運営に拘わることになります。
すると、それまで見えなかった会の本当の姿とか、会員のホンネが聞こえるようになります。その人の本質もチラチラと見えるようになって、もちろん、私の本質も他の理事に見えていたことと思います。子どもの頃からですが、頑固で融通が利かないと言われていて、確かに理事会でもそんな一面を何度も見せていたように記憶しています。
そんな2008年の10月か11月の理事会が終わったときでした。
「ちょっと、時間ある?」と、声を掛けられたのです。これがミニコミ誌への原稿依頼でした。
7.連載始まる
私に声を掛けてくれた社長が発行していたのは、市内の不動産情報が中心で、その中に「不動産とお金に関わるコラム」を乗せて、不動産情報に幅と深みを持たせたかったようです。
私が書いたコラムは2009年の1月号から連載が始まりました。
「不動産とお金に関する」ことなら、住宅メーカーの営業経験や不動産会社での賃貸業務での経験、宅地建物取引主任者の資格などもフルに活かせます。加えて私はファイナンシャル・プランナー(FP)の資格をも取得していましたので、声を掛けていただいた恩返しとばかりに、A5版、見開き2ページ分のコラムを私は毎月、毎月、書き続けました。
この毎月の連載は、始まってみると意外と大変だということが分かりました。
1ヵ月という時間は、あっという間に繰り返されるのです。
毎月の締め切り日までに原稿を送り、校正を確認して本が発行される。すると、休む間もなく次の月の締め切り日がやってくる。はじめは、アレを書こう、コレを書こうと書く材料に思い悩むのですが、そのうちにだんだんネタも切れてきて、思い付いたときに2、3ヵ月分を纏めて書きためることもありました。
実は、私は個人代理店の時から、お客様向けの情報誌を発行していました。
それも隔月で発行していたので、コラムを書くようになってからは、2ヵ月に1回はひと月の中で2つの原稿を書くことになりました。
保険の募集や保全をしながら、2つの原稿を書き続けるのは流石に書くことが好きな私でも、辛くなってきて、お客様向けの情報誌を四半期に1度、年4回の発行に回数を減らしたりして、対応しました。
そんなとき、大事件が起きました。
2011年3月11日。そう、東日本大震災です。





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