自費出版への道 15 東日本大震災

奮闘記

 その日、を境に私たちが「あたりまえ」に過ごしていた「日常」が、実はあたりまえではなくなった災害がいくつかありました。

 平成7年(1995年)に起きた阪神・淡路大震災もそうでした。

 京都に4年、住んでいた私にとって、阪神高速道路が倒壊し、阪急三田駅が崩壊している映像は、あまりにもショッキングでした。
 実際に自分の足で歩いた街が崩れ落ち、煙が上がっている。
 それは文字通り、我が目を疑う光景でした。

 けれど、まさかあのときと同じような光景を自分のこの目で見ることになろうとは、自分たちの町に起きるとは、想像すらしていませんでした。

 2011年3月11日午後2時46分。

 私は保険会社の月例の会議に出席していました。あと少しで休憩になろうかというとき、ブワっ、ブワっ、ブワっ。ブワっ、ブワっ、ブワっ、と会場のあちこちから携帯の警告音が鳴り響きました。

 そのときは、それが緊急地震速報の警告音だとは氣付いていませんでした。

 氣付いたのは、揺れ出してからです。

 ゆさゆさと揺れ初めて「地震か」と思った次の瞬間、会議場がある建物をどこかの巨人が持ち上げて振り回しているかのような激しい揺れが襲ってきました。

 地震の揺れが「襲う」という実感を抱いたのは、このときが初めてでした。

 私は会議場の椅子に座っていることが出来なくなって、椅子を降りてしゃがみ込み、直ぐ横の壁に左手を当てて、からだを支えなくてはなりませんでした。みれば、会場を仕切るための大きなパーテーションが左右に振り子のように揺れているのが見えました。

 尋常な揺れではありません。しかも、いつもの地震なら直ぐに収まるのに、この地震の揺れは一向に収まる気配を見せません。それどころか、一度落ち着くかに見えた矢先に、再び激しく揺れ始めたのです。

 恐怖。それしかありませんでした。

 後の記録によれば、このときの地震は180秒もの間、揺れ続けていたそうです。揺れ始めたときにお湯を入れればカップラーメンの出来上がりです。

 このときのことは、のちに横浜にある通信制大学、八洲学園の学園祭にレポートして書き留めています。

 そういえば、八洲学園のことは書いていませんでした。

 実は住宅メーカーの仕事を続けようかどうか悩んでいたときに、何か資格でも取ろうかと、もがいていた時期がありました。
 日本語教師の資格を取ろうと、ユーキャンの資格講座に申し込んでみたりしました。実際、資格取得までは行きませんでしたが、このとき勉強した日本語の基礎の基礎がいま、役に立っている氣がします。

 八洲学園大学もその一つでした。
 通信制の大学で、博物館学芸員と図書館司書の資格取得を目的に、人間開発教育課程の科目等履修生として入学しました。ちょうどいまの会社に勤めたのと時期が重なりますから、いっとき私は二足のわらじを履いていたことになります。

 ただ、やはり座学が出来ても実際に1週間程度の期間、博物館や図書館で実習を行うとなると、そこまでの時間的余裕はありませんでした。次第に保険の仕事も忙しくなって、数回の休学を経てから、最終的には資格取得をすることなく、退学という形になってしまいました。

 でも、結果として、このとき学んだことはいまに活かされていると思います。

 実際の授業は、科目等履修生とはいえ実際の授業は正規の学生と変わりません。パソコン上で決まった時間に実際に横浜の教室で行われている授業を受けるのですが、教室に入って授業を訊くだけでは、ダメなのです。

 いわゆる遠隔での授業ですから、パソコン上で教室に入ってあとは好きなことをすることが出来るのかと思いきや、一定時間、パソコンを操作しないと画面全体が真っ赤になって、ど真ん中に「退出」という文字が現れるのです。

 つまり遠隔であろうと、ちゃんと授業を受けていることを証明しなければならなくて、それは例えば、先生の授業に対してチャットで反応するとか、理解ボタンを押すとか、しないといけないのです。チャットに関しては教室にいる先生がそれをちゃんと見ていて、即座に反応してくれます。

 これは2度ほど参加した夏期スクーリングを受講するために、実際に横浜というか、桜木町にある学校に行ったときに、まざまざとその光景を目にすることになったのです。スクーリングで実際の教室で授業を受けるときにも、パソコンを開いての授業でした。

 授業を受けたら、待っているのはレポートです。
 これが厳しい。通信制の大学のレポートは厳しいです。
 立命館大学の授業や社会地理学研究会の活動で、いくつもレポートや報告書を書いていたので、そういうものには慣れていましたし、少なからず自信もあったのですが、正直、苦労しました。

 最も苦労したのが、児童文学論。この先生がむちゃくちゃ厳しいと聞いていたので、それはそれは氣を遣って書きました。
 レポートの題材としたのは「ゲド戦記」。ジブリの映画にもなっていますが、実際には1巻から7巻まであって、映画は1巻から3巻のダイジェストみたいな構成になっていて、これは正直、原作の小説の方が断然に面白いです。

 何をどう書いたのかは、いまとなってはすっかり忘れてしまいました。しばらくは、パソコンの中にファイルとして残っていましたが、パソコンを買い換える度に、何かのファイルを移し忘れて失ってしまうのが私の常なので、どこかでナクしてしまいました。もったいないことをしたと思います。

 東日本大震災が起きたときには、まだ休学中だったと思います。それで、学園祭の実行委員会から依頼を受けて、レポートを書きました。
 そのレポートがこちらです → 「終わりなき震災~遠くて近い日の記憶~」

 かくして、東日本大震災と東京電力福島原発事故で私たちの、あたりまえの日常は奪われてしまいました。特に原発事故の影響は甚大でした。書き続けていたコラムも、とても住まうこととお金のことなどをテーマに書くことが出来ない状態でした。それでも発行を再開した紙面を埋めなくてはなりません。

 私は、腹を決めました。

 大学時代に書いていたエッセイ風に原稿を書き上げたのです。住まうこととか、お金のこととか全く関係なしに。

 それを続けて約半年、2012年の新年号の原稿に取りかかろうとしていたときに雑誌の発行会社の社長から電話がありました。
 私は、すっかり原稿の内容の件だと思ったのです。依頼されたテーマを無視して、好き勝手なことを書いていたわけですから。

「あー、すいません。1月号から元に戻しますね」
 開口一番、私は謝罪しました。ところが電話の向こうから聞こえてきたのは、「いや、今のままでお願いします。結構、評判いいんで」

 反応には苦慮しましたが、正直嬉しかったですね。
 自分の書いた原稿が一般の読み手に、ちゃんと読まれている。
 住宅メーカーの時に発行していたオーナーズ倶楽部通信は、顧客向けでしたから、いわばクローズの世界でのことでした。今回は、完全に社会に対してフルオープンですからね。

 私が自分で書いたものを社会に向けて発信していく、そのはじまりがここにあって、その切っ掛けが社会を一度は破壊した災害だったというのは、世の中というか、人生は読めないものです。

 そして、2015年10月。私はある一つの試みをします。
 それまで保険契約の顧客向けにニュースレターを発行していたのですが、リアルに人を集めてセミナーをやろうと考えたのです。

 テーマは「なぜ私たちは病気になるのか」

 私の会社では損保も生保も扱っているのですが、どちらも万が一の事態に備える点では同じです。でも、損保で扱う偶然な事故は防ぐことが困難な場合が多いのに対して、病気になることは防ぐことが、防ぐことは出来なくても何かしら事前に対応することで病気になることを遅らせることは出来そうですよね。

 保険会社は、病気になったこんな備えが入りますよと医療保険やがん保険を販売しているのですが、私はずっと思っています。

 なぜ、保険会社は病気にならない方法を言わないのだろうと。

 病気になる人が少なくなれば、その分、保険会社は儲かるだろうに。
 がん、脳血管疾患、心疾患、肝臓病、腎臓病、その他諸々。
 なぜ、病気になったら大変だよ~、としか言わないのだろうと、ずっと思っていました。

 だから、保険会社が言わないのなら、自分でやろうと思ったのです。
 それが2016年からはじまる大人の課外講座「生命の誕生と進化の過程に健康の秘訣あり!」という顧客向けの講座開催に繋がっていくのです。 

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