自費出版への道 17 何も分かっていなかった初めて書いた物語「第1章 やまのべのみち」

奮闘記

 「第1章 やまのべのみち」のことに触れる前に、もう少し、2016年1月に始めた「大人の課外講座」について触れたいと思います。

 大人の課外講座には大きく4つのカテゴリがありましたが、最初から全部のメニューが揃っていたわけではありません。まずは「私たちはなぜ病気になるのか」というテーマを重視して、「生命の誕生と進化の歴史に健康の秘訣あり!」の全9講座を優先的に開催しました。

 講座を始めたときには、「生命の誕生と進化の歴史に健康の秘訣あり!」の全9講座のうち2つだけが「完成」していて、残りの7講座は講座を作りながら開催していくという、なんとも自転車操業的な企画でした。
 2016年と言えば、リオデジャネイロ・オリンピックが開催されていた年で、夜、テレビで競技の様子をラジオのように聴いて、見て。そんなことをしながら夜中に講座のスライドを仕上げていった記憶があります。

 講座は、基本的に木曜日の夜に開催し、平日に来れない方のために日曜日の午後に同じ講座を開催するという方式でスケジュールを組みました。
 木曜日は、お仕事帰りを考慮して午後6時30分から午後8時30分まで。
 日曜日は、午後1時30分から午後3時30分まで。
 ただ、顧客サービス的な側面もありましたから、希望者の意向で日曜日の午前中に開催したこともありました。

 講座の中心は「「生命の誕生と進化の歴史に健康の秘訣あり!」。
 この全9講座を前期、後期に分けてスケジュールを組みました。同じ講座を木曜日と日曜日に開催するので、この講座だけでも36回。
 それに保険や社会保障、信じるか信じないか講座がありましたので、本当に2016年は、大人の課外講座一色の1年でした。

 ただ、そんなに受講した方がいたわけではなく、開店休業的な講座の方が多かったこともまた事実。そこで2017年には講座の開催方法を見直して、全19講座を第1期、2期、3期と合計57回開催するスケジュールに変えてみたり、内容も少しずつ見直してみたり、試行錯誤しながら進めていきました。

 そして年が改まった2018年。
 3回目の大人の課外講座がスタートして2ヵ月が経った2月27日の夜のことでした。
 どんな話をしていたのかは、具体的には思い出せないのですが、とにかく私は「昔から書くことが好きで、いまもこんなに書く仕事をしている(もちろん、保険の仕事もしていましたよ)。けど、そんなに苦には感じないんだよね~」とか、そんな話をしていたんだと思います。そうしたら、

「それだけ書けるんだから、物語とか小説とかも書けるんじゃない?」

 パートナーが、そう言ったのです。で、そのとき私の中で何かが確かに弾けたのです。そして、私は「書けるよ、多分」と言って、そのままパソコンを開いて、いきなり書き始めたのです。

 書きたいことがあったのです。
 それは、大人の課外講座の一つでもあった「日本創世の物語」。
 かねてより日本の古代史に興味があった私は、古事記や日本書紀に書いてあることは本当なんだろうか? と思っていたのです。

 実在性が疑われる天皇も多いし、そもそも天皇という言葉は後付けされたものですし、神話にしても何が本当で、何が本当ではないのかが分かりません。
 邪馬台国の場所すら未だ確定出来ずにいますし、いまでは厨戸皇子うまやどのみこと習うらしいですが、聖徳太子の実在性も危うい。更に言えば、天智天皇と天武天皇の関係性にも疑問符が付きます。

 そんなことを都市伝説的に「日本創世の物語 黎明期、国家形成」という2つの講座にまとめていたのですが、いつかこれをちゃんとまとめてみたいという思いは燻っていたのです。それに火が付きました。

 「小説」と言われて真っ先に頭に浮かんだイメージは、大学時代に何度か歩いた奈良の山野辺の道でした。
 奈良県天理市の石上神宮から桜井市の大神神社までのおよそ9㎞の沿道には、箸墓古墳や、崇神天皇陵・景行天皇陵などの歴史的遺産が数多くあります。

箸墓古墳 (写真はいずれも筆者が2016年7月16日に撮影したもの)

 箸墓古墳は、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみことの墓とされていますが、この地がかつては邪馬台国であり、この古墳は卑弥呼の墓であるという説も存在します(私は絶対に違うと思っていますが)。

 また崇神天皇は天照大御神を三輪山から連れ出した豊鍬入姫命の父であり、景行天皇は日本武尊の父とされています。まさに山野辺の道は、日本の古代史を語る上で、とても重要な場所なのです。

 「小説を書いてみたら?」

 当時の私は書くことに自惚れていました。
 なにせ、大人の課外講座を継続開催しながら、ミニコミ誌へのコラム執筆を続け、さらに顧客向けのニュースペーパーまで出していたのですから。

「書くことなら」と、思っていました。

 A4版の用紙1枚に、1行30文字、40行の設定。
 のべ13枚で、およそ1万字あまりの物語「第1章 やまのべのみち」を、私はあっという間に書き上げました。
 「読んでみて」
 私はパートナーにプリントアウトした原稿を得意満面で渡しました。

 のちにパートナーは言います。
 「あの原稿を読んで、書けるんじゃないかなんて言うんじゃなかった」と。
 事実、名前も含めて登場人物の設定はいい加減で、そもそも人物の設定すらしていません。内容も、とても小説と呼べる者ではありません。いまなら、分かります。読み返す度に、恥ずかしくなります。

 でも、当時は分かりませんでした。
 自分の書いたものが最高なんだ! と、自惚れていたのです。

 「人物の性格とか、何を食べて、どんな服を着て、そういう細かいところまで決めてかないといけないんだよ」

 そんなパートナーの言葉を当時の私は一蹴します。

 「そんなまどろっこしいことしてたら、物語なんていつ書けるか分かんないじゃん。そんなもん、書きながら決めてきゃいいんじゃないの?」

 身内からの批判は最も大事なのに、私は反発しました。

 「そう、じゃあ、がんばって」

 果たして、それは見放しのことばだったのか。
 あるいは励ましの言葉だったのか。

 事実として残っているのは、「第1章 やまのべのみち」と題して書かれたその物語はその後、第2章が書かれることがなかった、ということ。

 では何をしていたのか。

 私は、小説を書く勉強をしていたのです。

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