ブックパレットでの初版は、2021年1月21日のことでした。
送られてきた段ボールの箱を開いて取り出した真新しい「本」は、とても愛おしくて、本を開けば、2018年2月から書き始めた物語がおよそ3年の時を経て完成し、文字通り、活きた文字となってそこにありました。
上下巻それぞれ20冊、合計40冊を正本発行するまでにかかった費用は、163,766円。その半分が登録料、半分が製本代でした。文芸社の700万と比べると破格的に安い費用で済みました。
ところが、です。
ここから様々、予想していなかったことが起こります。
まず、ブックパレットは正本出版をしてくれる会社なので、本の中身を吟味したり編集したりすることは一切なかったということです。
つまり、こちらが編集した本の原稿をPDF化して送る。ブックパレットはそれを体裁良く本として製本、発刊するだけなのです。だから費用も登録料と製本代で済んでいるわけです。
このことに氣付いたのは、ずっと後になってからのことでした。
それでも、自分の作品が形になったことだけは確かなことで、送られてきた本の1セットは永久保存版として保存。もう1セットを自分が読むための本として確保し、数セットを私が本を作ったことを知った友人、知人が買ってくれました。初版の本は、上巻が2,269円、下巻が2,458円(いずれも10%の税込み)と、決して安くなかったのに、本当に感謝です。
本の価格は、Amazonでの出版と同じで、ブックパレットの制作費用を原価として、それ以下に設定することは出来ません。最低販売価格が決められているのです。なので私は、最低販売価格そのもので売価を決めました。もとより、本を発行することで儲けようとは思っていませんでしたから。
実際に活字になった本を読み始めると、思った以上に誤変換や誤字があることに驚きました。あれほど、何度も何度も読み返し、一太郎のチェック機能を使って確認したのに、です。つまり文芸社の歴史文学賞や松本清張賞に応募したときの原稿にもおそらく多くの誤字、脱字、誤変換の文字があったと推察されるのです。これでは審査員の印象もよくありません。
本当に恥ずかしいったらありゃしません。
一度氣が付くと、次々と表現のおかしいところや、語順を訂正したい箇所が出てきます。もちろん、誤字脱字、誤変換も、です。そして、上巻の最後、第七章の後半、三幕八場のクライマックスにこれから入っていこうとするところで、異変を感じました。
ページが飛んでる。
明らかに物語の一部が欠落していたのです。それも十数ページ分が。
ありえない。。。
本はすでに販売され、買い手の手に渡っています。
ページが飛んでいる以上、これは完全に不良品です。
先にお話ししましたように、ブックパレットは本の製本を手掛けているだけで、その中身については一切関知していません。
パニックになりそうな頭を、冷静になれ、冷静になれと必死に抑え、どこからどこまでが欠落しているのか、パソコンを開いて確認しました。
欠落箇所は直ぐに分かりました。そして、欠落の原因も。
Amazonでの出版を検討していたときに私は、物語を上中下巻の3巻に分けました。ブックパレットで製本、出版をする際にも、そのまま上中下巻での発行を検討していましたが、表紙作成費用が1巻分、余計に掛かるということで、再度、上下巻の2巻に戻すことにしたのです。
作業は中巻の前半分を上巻に、後半分を下巻に振り分けること。失敗したのはそのときです。上巻の最後の部分に中巻の前半部分を再編集するときに失敗していたのです。
具体的な原因は、コピー&ペーストでした。
中巻を前半、後半に分けて、それぞれを上巻の最後、下巻のはじめに再編集する際に、中巻の当該部分をコピーして上巻、下巻にペーストしようとしていたのですが、1回でやろうとするとコピーの容量が大きすぎてコンピューターが上手く動いてくれません。やむなく、いくつかに小分けして作業をしていたのですが、単純作業故に集中力が三万になっていたのでしょう。コピーをする際に、欠落したのです。
コピーが完了したときに、きちんと読み通して確認すればこんなことは起きなかったのですが、私の頭はすでに出版の方に向いてしまっていて、まさか自分がコピペに失敗するとは思っていなかったのです。
顔面蒼白になった私は、すぐにブックパレットに連絡を入れました。
Amazonとジュンク堂hontoでの電子版の配信とPODを止めるためです。
事ここ至って初めて私は、手元の本のクリーニングを始めました。
すでに、いくつかの誤字や脱字、誤変換を確認していたので、本に直接朱を入れ、付箋を貼っていったのです。
記録に寄れば、このとき、欠落部分以外の訂正箇所は上下巻合わせて合計170カ所にも及び、2月13日、21日、23日の3回に分けて訂正依頼をしています。初版の発行日が1月21日でしたから、そこからわずか3週間あまりの間に抜本的な訂正をしなければならなくなったのです。
私が先に話した、ブックパレットは本の中身に関しては一散関与しません。編集はしてくれないのです。だから、私がいくら丁寧に上巻の何ページの上段、右から何行目の〇〇を○○に訂正とかを書き連ねて送っても、彼らは何もしてくれません。訂正は全て私が行って、訂正後の原稿をPDF化してメールで送るのです。それを第2版として製本、出版するのです。
こうして修正を加えた第2版は、3月10日に発行されました。
何度も何度も確認したことに地震がありましたから、今度は製本した本の販促に力を入れることにしました。
地元の知り合いの店に本を置いてもらったり、本屋さんと交渉して、2つの本屋さんでそれぞれ5冊を3ヶ月間、置いてもらうことになりました。自分の本がリアルに本屋さんに並んでいる姿は、もう、感激以外の何者でもありませんでした。




上の写真は、大型商業施設の中にある本屋さんに置いてもらっている写真です。
中央の通路に近い場所の書棚の一角に平積みしてもらったのを見たときは、感動でした。表紙がテカテカと光っています。
ただ、表紙カバーも帯もないので、どうしても時間が経つごとに表紙が反ってしまうのです。これがなんとなく安っぽく見えてしまって、表紙カバーはあった方がいいのかも知れないと、このとき思いました。
さらに私はこの第2版の本を国立国会図書館に寄贈しました。
これで基本、永久保存です。
さて全てが順調に進んでいたと思われたとき、やはりというか、やっぱりといいますか、上巻に訂正が必要と思われる箇所を7つも発見してしまったのです。
だから、はじめにちゃんとチェックしておけば良かったんだよ、という声が聞こえてきますが、チェックはしているのです。でも、著者のチェックはどうしても甘くなります。なにしろ自分で物語を書いているのですから、誤字や脱字があってもそれを時分の頭の中では「正しい」と、あるいは本当は間違っているのに、間違っていないと判断してしまうのです。
例えば、こんな例文があります。
何も考えずに、一気に読んでみてください。
「こんちには みさなん おんげき ですか?
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の
けゅきんう の けっか にんんげ は もじ を にしんき する とき
その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じんゅばん は めちゃちゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす」
いかがでしょうか。読めてしまいますよね。
でも、よく見るとメチャメチャです。これはこの文章にあるように、人間は最初と最後の文字さえあっていれば、文字の順番が異なっていても「読めてしまう」のです。脳が、そうさせているのですね。だから、自分で書いた文章は、その間違いに氣付きにくいのです。
結果、上巻についてのみ、第3版を発行しています。5月10日のことでした。
文章の欠損も誤字、脱字、誤変換も、その全ての原因は著者たる私にあることは明白です。でも、こう何度も何度も繰り返し「誤り」が見つかると、正直、精神的に宜しくありません。だからこそ、出版社では著者以外の「目」を入れて、客観的に補正していくのです。だからその分、価格に反映されていくのはごく当たり前のことなのだと、ようやく氣付きました。
最初に文芸社から見積もりの提示を受けたときに担当者は、これだけの分量ですからスタッフを2名付けてブラッシュアップしていきましょうという提案をしてくれました。つまり、あの時の見積もりには、2名分のプロの目が含まれていたのです。高くなって当然です。このときになって初めて私が抱いた、いわば絶望感に近い感情を抱く確率が限りなく低くなるわけですから。
値段は理由なくして、その値段にはなっていないということです。
結果的に、ブックパレット社から発行した「オブシディアンの指環」は、上巻は4回、下巻は3回の手直しをしました。特に、上巻の4回目と下巻の3回目、これがブックパレットでの最後の版になったのですが、このときには、本の内容までも完全に一から見直しをかけて、従来の2/3の分量まで削りました。
文章の繰り返しになっている箇所、文芸社の方から指摘を受けた「説明になっている」と自分で判断した箇所、文章と文章の組み替えをしたり、思い切って文章を削ったりと、大手術をして2021年の11月25日に結果として最終版となった版を発行しました。
版の変更は、文字の方はPDFを差し替えればいいだけなのですが、電子版はそうはいきません。原稿を差し替える度に、EPUBファイルの再作成費用とPODと電子版の最申請費用が掛かります。
私の場合、上巻の変更を4回、下巻の変更を3回行いましたので、合計で43,100円の追加費用が掛かりました。
また製本は、内容の変更の都度、各20冊、合計40冊をのべ4回、合計160冊を製本して、約20万円の費用が掛かりました。
では、160冊の内、何冊売れたのか。
答えは上下巻12セット、24冊です。
自費出版をお考えの方に、お伝えしておきます。
本は、あなたが思っている以上に売れません。
自分で自分の好きなことを自由に書いているわけですから、自分が下す自分の本に対する評価は常に最高です。これはこれでいいのです。自分事ですから。
でも、それが他人に対しても同様かというと、それはちょっと冷静になって考えた方がいいと思います。
本の出版を考えている方は、一度、地元の本屋さんに足を運んでみてください。そして本屋さんの全体が出来るだけ見渡せる場所に行って店の中を俯瞰してみましょう。
私は自分でコレをやってみたときに、本屋さんの中にある本の種類と量に改めて驚嘆したのです。こんな無数の本の中から無名の作家の本を手に取るのは、宇宙の星の中から特定の星を一つ摑みに行くようなものです。ましてや、手に取った本をレジに持って行くことなど、奇跡の中の奇跡なんだと確信したのです。
少ないながらも売れた本の内、2セットは町の本屋さんに販売委託をしたもので、1セットは、知り合いのお店においてもらったものでした。
「売れたよ~」と、連絡をもらって代金を受け取りに行くと、お店の人が満面の笑みで「自分の商品が売れたときよりも嬉しかった」と、言ってくれました。
こういう形にならない応援が、とても身に染みて嬉しいですね。
ブックパレットでの製本・出版は、2021年11月末を以て終了しました。
理由はいくつかあるのですが、まずは全ての連絡、やりとりがメールだったことでした。電話を架けたのは一番最初と、上中下巻から上下巻に変えたときの2回だったでしょうか。
メールでのやり取りは、当たり前ですが、文字だけの情報交換になり、そこには声の抑揚も感情もありません。いや、本当はあるのです。メールの文章をしたためているときに、その人の思い、書き手には必ず感情があるはずなのです。しかし、その感情はメールを受け取った側、読み手にはそれは一切伝わりません。読み手は、その文章を読むときの気分、感情、あるいは読み手自身の経験や価値観によって文章を読み取り解釈します。
それは物語においても同じです。
その物語、件を書いている時の著者の心情や感情は読み手には伝わらないのです。メールを受け取った受け手と同じように、物語は読み手の手に渡った瞬間に読み手の物語になるのです。
(余談ですが、昔、国語のテストで「この部分の著者の心情を答えなさい」なんて問題がありませんでしたか? いまにして思えば、著者の気持ちなんて分かるわけないのです。著者になった私はそう思います)
物語は、書いた著者の物語であり同時に、読んだ読み手物語である。者がy祟りの場合はそれでいいのですが、メールの場合はそうはいきません。情報の伝達という点において、感情の祖語が必ず生じます。送り手はそういう意味で(感情で)書いたのではない(送ったのではない)というかも知れませんが、読み手は書き手や送り手の感情など知る由もありません。そこに情報の祖語や既存が生まれてしまうのです。
私はそれがイヤでした。
ブックパレットの担当者とやり取りをしている中で、あまりにもドライに感じられ、その感情を抱いてからは担当者からのメールの文章に血の流れや温かさを一切感じなくなっていきました。
息が詰まる感覚を覚えた私は、ブックパレットへの委託を終了することにしました。本来なら、自分の書いた物語を出版する、世に出していくことは、この上なく楽しいことのハズでです。その証拠に、初版の本を手に取ったときの喜びはいまでもはっきりと覚えています。それが、時間を追うごとに息が詰まるようでは、それは作品を世に出したいという著者の意向とはかけ離れてしまいます。
自分の事です。我慢してまで続ける理由はありません。
第4版のオーダーを出した直後に、私はブックパレットに対して、今回で終了したい旨の申し出をしました。
幸いなことに、ブックパレットは版権を持っていませんでしたので、委託契約を終了することにはなんの問題もありませんでした。そもそも、こちらが送ったPDF原稿を製本したり、電子書籍化しているだけでしたので。
終了の申し出に対して、応えたのはいつもの担当者ではなく、おそらく上司と思われる方でした。
そうそう、ブックパレットの方はフルネームを名乗りません。いつも苗字だけです。だから、担当者やその上司と思われる方が男性なのか、女性なのかも分からず仕舞いでした。いまにして思えば、そういう所からだったのだと思います。
およそ1年の期間に製本・出版にかかった総費用は、237,468円でした。
一方の売上金額は、89,426円。差し引き、148,042円の赤字でした。
ブックパレットは、事業のその性質上、私のような小説を販売目的で製本・出版するのには、不向きなのかも知れません。
自分で撮りためた写真を編集して写真集を出すとか、部数の少ない詩歌集をだすとか、絵本を数冊作ってみるとか、小規模の出版には向いているのかも知れません。
ただし、内容の編集には一切関わってきませんので、原稿作成には著者側の責任が非常に重くなりますので、可能なら、原稿が出来た段階で第三者にチェックをしてもらうのもいいかも知れません。
そのとき注意したいのは、第三者にチェックを依頼したときに、そのチェックの全てを受け入れる必要はないということです。
先ほども触れましたが、全ての原稿は著者の手を離れた瞬間に読み手の物になります。それは読み手が著者の経験や価値観を同一に持つことは不可能で、加えて物語を書いているときに著者が抱く不思議な感覚を決して味わうことが出来ないからです。作品の全ては完全に著者のものであり、著者と同一ではない他人がチェックした項目の全てを受け入れる必要性はどこにもないのです。
同様に、読み手は読み手の経験や価値観で物語を読んで解釈する自由はありますが、だからといって、著者に対してここをああしろだの、こうしろだのと、修正を求めるのは完全に筋違いなのだと私は思います。
そうはいっても、ここで何度も触れたように著者が決して氣付かない「ミス」は、必ずありますから、著者が納得して受け入れられるチェックは積極的に受け入れた方が、作品としての完成度は上がりますよね。
さて、ブックパレットという出版ルートを自ら断ち切った私の脳裏に浮かんだのは、2020年10月1日に文芸社を訪問した日の夜、私の携帯に掛かってきた文芸社の別の部署からの電話でした。
思い立ったら行動です。
自分の事ですから尚更です。失うものはありませんからね。
次回は「文芸社再び」です。
Zガンダムの第13話「アムロ再び」を真似てみました。




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