私が就職先に選んだのは、大手住宅メーカーでした。
なぜ、住宅メーカーを選んだのか。そこに明快な論拠はなく、ただ単に給与が良かったから。ボーナスも年に3回も出たんです。日本育英会から借りていた奨学金も返さなくてはならず、単純にお金が欲しかったんですね。
この奨学金も、昨今問題になっていますね。
私は、当時、そこまで深く考えていませんでしたが、大学卒業と同時に160万円の借金を背負ったことになります。幸い無利子でしたからそこは良かったですが、毎年12万円を約13年掛けて返すことになりました。
就職のときに「営業職」を希望と面接を受けたりしていたのですが、恥ずかしい話、私は営業職が一体何をする職種なのか、全く理解していませんでした。会社に入って初めて「そうか、家を売るのか」と認識したものの、家をどうやって売るのか、皆目見当も付きません。
3月31日に東京で東日本で採用の新入社員が集められて入社式を行い、そのまま茨城県高萩市にある研修施設でマナー研修を受けました。名刺の出し方とか、電話の取り方とか、言葉遣い、そういった社会人としての基本の「き」を3泊だったか、4泊だったか忘れましたが、叩き込まれたのです。
マナー研修が終わり、ついに営業所に出社です。
平成元年(1989年)の郡山営業所の新入社員は、営業が2名、設計が1名、女子社員が3名(たぶん)でした。そのから、私の営業職としての地獄の日々が始まるのです。
出社初日は、丸々1日、営業所での研修を受けました。
当時の総務課長のMさんから、朝から晩までみっちり研修を受けて、自席に戻ると営業課長のTさんが「お前ら、カバンは持ってるか」と聞いてきます。入社したばかりで、何も持っておらず、「いえ」と答えると、「いますぐ、買ってこい」と仰せ。確かに営業所は郡山市の繁華街近くにあるので、買ってこいと言われれば、買って来れます。
当然に、私たち(私ともう一人の営業職Mくん)は、いそいそと営業所を出て、カバン屋さんに行き、営業所に戻ります。すると、私とMくんの机の上に名刺が2箱(1箱100枚入りで、合計200枚)、それに住宅のパンフレットが数冊、それぞれの机の上にちょこんと乗っているではありませんか。
「おお、名刺だ」
これで自分も社会人になったのだと感慨に浸っていると、先ほどのT課長が、
「カバン買ってきたか。そしたら、その名刺を持って行ってこい」
「行ってこい? どこへ?」
「どこって、あそこらにマンションとかあるだろ。名刺持って行ってこい」
「え、でも、何しに行くんですか?」
「お前ら、営業だろ。家売ってくるに決まってんだろうが」
記憶の中でのやり取りなので正確ではありませんが、大凡こんな感じのやり取りだったと思います。ここでも私たちに反論の余地などなく、私とMくんはカバンにパンフレットを詰め込んで、営業所を出ました。でも、どこへ行くとも宛はなく、そもそも、家をどんな風に売るのかも分からないのです。
私とMくんは、営業所近くのマクドに行って時間を潰し、適当な時間に営業所に戻りました。おそらく、T課長は全部、お見通しだったと思います。
翌日、昼間は昨日と同じように営業所での研修を受け、夕方、自席に戻ります。すると、この日は住宅のパンフレットとプラン集(予め設計された図面が載っているパンフレット。当時は「プラン売り」と称して、お客様に希望するプラン=図面を選んでもらうという売り方がありました)、それに住宅金融公庫(いまでいう住宅支援機構)のパンフレットが置いてあります。
するとT課長が、他の社員に言ってホワイトボードを私たちの近くに持ってこさせました。そしてホワイトボードに例題を書き始めたのです。
30歳代の夫婦に子ども1人。年収はいくら。この条件でいくらの借り入れが出来て、その資金計画の中でどんな家が建てられるのか、プラン集から選んで提案しなさいという課題です。
もちろん、私とMくんはプラン集を見るのも、住宅金融公庫のパンフレットを見るのも初めてです。何をどうすればいいのか分からずに顔を見合わせていると、流石にこの日はT課長が基本をレクチャーしてくれました。
そうして作った資金計画と、それに基づいたプランを選んで、なぜそうしたのかをT課長に説明し、その日の課題は終わり。
そして、私とMくんが受けた研修は、この日で全て終了したのです。
営業所に配属されて3日目から、私たちは実戦に強制投入されたのです。
いまならこんなことはあり得ないでしょう。でも当時はこれが普通でした。というのは、このプロセスに疑問を感じることがなかったのです。確かに、生名営業に行ってこいというのは面食らいましたが、いまにして思えば、一から十まで机上で教わっても、実際にお客様の前で使えなければ何の意味もありません。
基本の「き」だけは押さえておいて、あとは実戦の中で経験し、学び、さらに経験を重ねることが、むしろ早道だったのかもと、いまは思います。
ただ、現実はそう甘くありません。
社会人として迎えるはじめてのゴールデンウィーク。
私たちは郡山市内にある総合住宅展示場でお客様をお迎えします。
1棟あたり千万単位の買い物を一体どのくらいの人がするのだろうと、全く分からなかったのですが、蓋を開けてみると、ものすごい人が展示場を訪ねてくるのです。
「正気か?」と、思いました。
けれど、よくよく考えてみれば、アパートの家賃にプラスアルファで、自分の家が持てると考えれば、そうそう飛んでる話でもありません。
幸いなことに、私もMくんも、このゴールデンウィークの来場者から初めての契約を頂くことが出来ました。
「今年の新人は、すごいな」
5月31日の納会の時にそんな声が揚がりました。
当時の営業所では、毎月の末日の午後5時から全社員が参加して、当月の成績を発表し、また表彰するのです。入社1年目の5月、私もMくんも誇らしげでした。そして、納会が終わると社員全員で営業所近くの焼く肉屋さんで「打ち上げ」をするのです。もちろん、費用は会社持ち。こんなに美味しいお酒はなかったですね。
ところが、です。
Mくんは、6月にも、7月にも、契約を取ってきました。その後も、隔月程度にコンスタントに契約を取ってきます。
私はというと、まったく成績が上がらず、毎月の納会の後の焼肉も苦痛になってきました。当時、「給料泥棒」という声が揚がっていたのも知っています。でも、どうすることもできません。
自分ではやっている「つもり」なのですが、肝心なことをいつも聞けずに終わっていたのです。それは、見込み客の「年収」です。
営業所に配属されたばかりのとき、M課長が出してくれた課題。
一番重要なことは、その人、その家庭の収入状況を知ることでした。
収入状況が分からなければ資金計画も立てられず、もちろん、設計の提案も出来ません。学生時代にお金のない生活を続けていた私は、他人の収入がいくらあるかを訊くことが出来なかったのです。
「年収はいくらですか?」
この一言が訊けずに、私は辛酸をなめました。
5月に契約した住宅は、8月に着工し、無事12月に竣工し、お客様に引き渡すことが出来ました。でも、この時点でも私には2棟目の契約がなかったのです。
私が就職した時代には、手取り足取り営業のノウハウなんて教えてくれる人なんていません。だから先輩社員のやっていることを見よう見まねで真似してみたり、時にはボイスレコーダを買って、トップの営業マンのトークを録音したこともあります。でも2時間もある録音データのほとんどが世間話で、なにか必殺のトークを期待していた私は、とてもがっかりしたことを覚えています。
年が明けて1月、私はまたしても契約を取ることが出来ませんでした。
そんなとき、不思議な夢を見ました。
見えたのは中世の欧州の町並み。石畳が雨に濡れて黒く光っています。
石畳の道路の脇にはいくつかのガス灯があって、辺りを黄色く照らし出していました。そう、例えるならハリーポッターに出てくるオリバンダーの店があるような感じの町です。私がその町を歩いてて、それを私がどこか高いところから見ているのです。
次の瞬間、パン! パン! と乾いた音がして、私は斃れます。
銃で撃たれたのです。その様子も、もう一人の私が見ていたのです。
銃で撃たれた瞬間、現実の私もまたベッドの上で銃で撃たれた感覚で目を覚ましました。だから、いまでも鮮明に覚えているのです。
雨の石畳で私は一度、死んだのです。
それからです。急に契約が取れだしたのは。
2月に2棟、3月にも2棟。その半期は東北営業部で成績優秀者の一人となりました。
「どうした?」
周りの見る目が変わったのが分かります。
そして、同時に私自身も変わったのだと思います。
結局、私は、一般戸建て住宅の営業を5年、その後は主に集合住宅、アパートの営業を約8年やりました。営業という職種でいうなら、売るものは変わりましたが、いまに至るまでずっと営業職です。
私はの子どもの頃は、どちらかというと引っ込み思案でした。
これを言うと、大概否定されますが、いまでも引っ込み思案の性格は残っていると思います。人前に出ることも、人前で話すことも、基本的には苦手です。
ただ、学生時代に多くのディベートを繰り返して来たことで、それなりの訓練を受けた形にはなっているかも知れません。学生時代に日本中を一人旅して身に付けたスキルもあるかも知れません。
でも、営業ってどんなことをするのか、全く分からないで就職した私が、36年もの間、その仕事を続けているわけですから、いま巷で問題になっている就職のミスマッチとかいうのは、単なる我が儘にしか聞こえないというのは、還暦おじさんの戯言だと聞き流していただけると幸いです。
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