自費出版への道 12 建築から不動産、そして保険へと波瀾万丈の5年間のお話し

奮闘記

1.最初の転職

1)英会話の習得にチャレンジ

 新卒で入社した住宅メーカーには12年、勤めました。辞めたのは平成12年、2000年の9月でした。

 辞めた理由はいくつかあるのですが、一番大きかったのは氣持ち、でした。

 まず自分には住宅やアパートの営業は出来ないと思い込んでいたこと。
 そして、なにか自分に合っている仕事はないかと試行錯誤していたのもこの時期でした。

 高校時代から全然出来なくて、それでも心のどこかで憧れていた英語の勉強にも取り組みました。
 当時、郡山市の駅前にあった「英会話のジオス」にも通いました。
 プレップという2、3人のグループレッスンで、最初の先生は日本人でしたが、1年くらい通った後、アメリカ人の先生に代わりました。

 英会話が出来るようになったのかと問われれば、
 全然、ダメでしたね。
 元々、外国語に対する素養がないのでしょう。
 なにしろ、ジオス経由で申し込んでいたオーストラリアへの10日間の短期留学も、出発の1週間前に交通事故でキャンセルすることになったのですから。

 2)神様に止められたオーストラリア留学

 8月の日曜日、午後3時頃、アパートの展示会場に車で向かっていた私。
 赤信号で停車していたのですが、後方から大型のパジェロにノーブレーキで突っ込まれて、そのまま前に停車していたセフィーロに追突。
 私の車は前後がぺしゃんこになって全損廃車。
 私自身は外傷はなかったものの首から背中、腰にかけての打撲、それに事故直後は両腕と両足の筋肉が強張ってしまって酷い痛みに悩まされました。

 両腕両足が強張ったのは、後ろから急接近するパジェロの姿をバックミラーで捉えていたから。
「これは、ダメだ」
 そう判断した私は、サイドブレーキを引き直し、フットブレーキをきつく踏み、両手でハンドルを押さえたのです。
 でも、ダメでした。

 後ろから衝突された瞬間に前に押し出され、前の車にぶつかると同時にボンネットがぐにゃりと曲がるのが見えました。

 最初は背中全体が腫れている状態で、晴れを引くところから治療開始。
 腫れが引いても、首の痛みと重さがなかなか取れなくて、検査入院も経験しました。完治して、仕事に復帰するまで3週間ほど掛かりました。

 いまにして思えば、神様が留学を止めたんだと思っています。
「それはお前の行く道ではない」と。

 実際に留学に行っていないし、人生に「たら」「れば」はないので、留学した方が良かったのか、悪かったのかは分かりませんが、私についている時間の神様が強制停止してくれたんだと思っています。

 そして、仕事を休んでいた間に私の中で何かが変わりました。
 本当に自分がやりたいことを求めるようになったんだと思います。

 3)営業本部長の言葉に、この人は正気かと疑いの目を向けた

 私の会社に対する目も変わりました。
 この会社は本当にお客様を大事にしているのかどうか、小さな事も気になるようになりました。
 こんなことがありました。

 ある木曜日の朝のこと。
 その日、私は午後イチで、福島市在住のお客様のところへ契約前の最終地合わせに行くアポイントがありました。郡山から福島まで行って打ち合わせをするということは、行くというアポイントを取った時点でもう、契約はOKというサインなのです。契約する気がなければ「来るな」ですから。通常、アポイントそのものが成立しません。 

 私は、朝礼前に営業所の営業課長から声を掛けられました。
 営業課長ですから、その日の私の予定は知っています。

「あのさあ、今日、福島に行くことになってるだろう?」
「はい」
「その予定、変えられないかな」
「へっ? なんでですか?」
「実はさぁ、今日、部長様が来るんだよ」

 つまり、今日の営業会議に仙台からわざわざ(来なくてもいいのに)東北営業本部の部長様が来るから、お客様との約束を破棄して会議に出席して欲しいというわけです。もちろん、そんなことを承諾できるわけがありません。

「ムリです。今日、クロージングですよ」
「いや、それはわかってるんだけどさ。なんとかなんないかな?」
「お客様との約束ですよ。それより大事なもの、あるわけないじゃないですか。会議は途中で中座させて頂きますので」

 会議はとにかくエラいらしい営業本部長様を迎えて始まりました。
 福島での約束は午後1時。午前11時には会議を中座しなければなりません。
 時間になったので私が席を立とうとしたら、

「おい、どこへ行くんだ?」
「お客様との約束がありますので、ここで失礼します」

 このあと、エラい営業本部長様から放たれた一言を私は一生忘れません。

 即座に私は言い返しました。

「お客様との約束に決まってるじゃないですか」

 会議の席を立ち、福島市に向かった私は、予定通り、契約を纏めて帰ってきました。
 往復の車の中、私の頭の中では営業本部長の言葉が何度も、何度も頭の中で蘇りました。東北営業本部の営業部長が、お客様より会議が大事と言い放ったのです。このときから私は、この会社が「お客様のために」と言っているのは、全てウソだと思うようになりました。

 人生の中で守るべきものを間違うと、本当にみっともない姿になります。

 4)直属の上司、営業課長の裏切りに腹を決めた

 こんなこともありました。
 当時、私は営業課長との2人チームだったのですが、これもある営業会議の席で、当月の契約予定客を営業から発表していくのですが、そのときに私の既契約者の名前を営業課長が挙げたのです。

「は? どういうこと?」

 会議が終わった後、私は課長を問いただしました。

「課長、あれ、どういうことですか?」
「いや、お前には黙ってて悪かったんだけどさ、電話が掛かってきてたまたま俺がその電話、とったんだわ」

 意味が分かりませんでした。
 電話を取ったら、例えそれが部下の既契約者であっても自分の契約にしてしまう、それが当時の営業課長。

 「そうですか」

 もう、議論する気もありませんでした。
 言って分かる人なら、最初から人のお客様を横取りなんてしません。
 最初からそういう人なのです。

 先の営業本部長のことといい、いまにして思えば、営業の仕事がイヤだったのではなく、急速に変わっていった社風だったように思います。当時の社長は3代目の会社では生え抜きの社員が社長になっていました。この人が社長になってから、会社は急速に変わっていったと思います。

 お客様との約束よりも社内の会議を優先する社風。
 自分の数字のためなら部下のお客様を横取りする社風。

 こんな会社に自分の貴重な人生の時間を浪費する必要などどこにもありません。退職を決意したのは、まさにこのときでした。

 さりとて、自分に何が出来るのか試行錯誤を重ねていた毎日。
 悩める心中を、懇意にしていた不動産屋さんに打ち明けると、「ウチに来るかい」と言ってくれたので、これもいまにして思えば短絡的だったと思うのですが、その言葉に甘えることにしました。

 かくして、平成12年、2000年の9月を以て、私は最初の転職をしたのです。

 5)売る側から借りる側への転職

 不動産屋さんでは、賃貸業務を担当しました。
 まさにアパートを作る側から使う側の仕事に、180度変わったのです。

 全く異なる視点から一つの仕事を見ることになったわけで、これも、思い返せば小説を書く上での視点構成の土台の一つになっているのかも知れません。

 賃貸の仕事は、面白かったですね。
 アパートには希望すれば誰でも入居できると思っていたのですが、実情は違いました。実に様々な事情を持った人が入居を希望して来店するのです。

 離婚して身寄りがない人。DVから逃げてきた人、元々身寄りのない人。
 シングルマザーを含めて、こういう人は多かったです。

 当時、アパートの部屋を借りるためには連帯保証人が必要でした。
 契約期間中に何かあったときのための保険ですね。
 ところが、これら身寄りのない人が連れてくるのは友人、知人。
 正式には連帯保証人になれないのですが、OKして貸しました。もちろん、当時の社長の承諾を得た上でですが。

 経験則で分かったことですが、こうして入居した方々は家賃の滞納をしませんでした。衣食住と言いますが、住むところがあるというのは、やはり重要なんだなと思います。

 不動産屋さんで賃貸の仕事をしたことで、同じアパートという建物の両面を経験することが出来ました。1つの事象を多角的に見ることが出来たことで、小説を書くときの視点を養ったのかなと、いま思っているところです。

 その不動産屋さんですが、平成14年の7月に辞めました。
 辞めたと言うより、これは不当解雇でしたね。
 7月28日でしたか、夕方、社長の口から「今月で辞めてくれ」と言われ、「そうですか」と返した私は、翌日、自分の荷物の一切を片付けて、退職しました。

 そのときの私は(ファイナンシャル・プランナーのくせに)労働基準法のことなど全く分からず、「それって、違法なんじゃない」と、何人かの友人、知人から言われましたが、私は、そんな風にごちゃごちゃと争っても、得るものは限られているし、そもそもそんな後ろ向きの時間が無駄だと判断して、立ち去りました。

 こういうところは、妙にこざっぱりしてるんです。私。

 とはいったものの、次の仕事の当てが全くない私。
 大学の時に漠然と教員にでもなろうかと思っていて取得した教員免許。
 学習塾のバイト募集の広告をみて、いくつかの塾を掛け持ちしながら過ごしていた、そんなある日のこと、「保険の仕事しない?」と、声を掛けられました。

 それがいまの仕事です。

6)保険業界の門を叩く

 声を掛けてもらったのはいいのですが、保険のことなど全く分からない私。
 研修制度があるというので応募して、めでたく採用。2002年9月から38ヵ月の研修を受けることになりました。

 研修センターに缶詰されて、1週間、自動車保険に火災保険、傷害保険や賠償責任保険、そして生命保険等々、基本の「き」から叩き込まれます。
 机上の研修と同時に実践、つまりは営業も同時並行で進みます。
 研修を1週間、次の1週間は地元で営業活動。次の1週間はまた研修といった風に、1週間ごとに研修と実践を2ヵ月繰り返し、以後は3ヵ月後とか、6ヵ月後とか、間隔が空いていきます。

 研修生の中には、既存の代理店から派遣されて来た人もいますが(つまりは新人研修みたいなものですね)、私は独立コースで、研修を終えたら個人代理店として開業することになります。しかし、現実はそう甘くはありません。

 研修には3ヵ月に一度の目標数値があって、それを2度達成できなかった時点で脱落。代理店から派遣されてきている研修生は代理店に戻ることになりますが、私のような独立コースの研修生は、目標を達成できなかった時点で独立コースでの卒業は不可能になります。どこか既存の代理店で受け入れてくれるところがなければ、そこで終了です。厳しい世界です。

 幸いなことに、私は38ヵ月の研修を無事に終えることが出来ました。
 それだけでなく、後半の18ヵ月は6ヵ月ごとの東北ブロックの表彰制度にも行くことが出来て、美味しいお酒を飲むことが出来ました。

 かくして2005年11月。私は研修を完走して、個人代理店として独立を果たしたのです。

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