自費出版への道 5 大学受験に失敗した私が東京で聴いたHonesty(オネスティ)

奮闘記

 私たちが子どもの頃は、個人情報なんて概念は全くなくて、地域なら地域の子どもたちのことはみんな知っていたし、学校でも同じ学年ならもちろん、同じ学校の児童や生徒のことはみんな知っていた時代でした。

 例えば、いまのように誰でもスマートフォンやパソコンなど持っていませんから(そもそも存在していない)、主な連絡手段は学校から渡される「プリント」か電話連絡網でした。およそ1クラス40人くらいの全員がいくつかの班に分けられて、それは万が一、電話が通じないときには走って行ける距離の近さにあるグループ分けで、そこにはそれぞれの家の電話番号が書かれていました。だから、クラスに好きな女の子がいたとして、わざわざ電話番号を聞く必要がありませんでした。
 でも、家電に架けて本人が電話に出る確率は著しく低く、お母さんが出てくれればまだOK。お父さんが出ると、本人がいるにも拘わらず「いない!」ガチャリ! と、電話を切られるパターンの多かったこと、多かったこと。


 本人と話していても、双方の会話が双方の家族に筒抜けで、まぁ、あっけらかんとしていたのが「昭和」という時代だったんだろうと思うのです。

 高校受験の合格発表も学校に受験番号が張り出されていたり、その高校の定期試験の各科目、現代国語とか化学Ⅰとか英語とかの成績上位者は、その点数と名前が短冊形の紙に書かれて職員室脇の廊下に堂々と張り出されていました。だから、全校生徒職員がその学年の成績優秀者の名前を知っていたのです。

 私の父親は、国鉄の技術系の職員でしたが、その遺伝子は私の中では眠っているようで化学の化学方程式までは良かったのですが、ベンゼン環、いわゆる亀の子が出てきた時点でギブアップしました。数学や物理の授業には全くついて行けず、高校2年の4月に物理の参考書を買いに行こうとして自転車を走らせていたときに車にはねられてしまい、高校の物理は15点以上の点数を取ったことがありませんでした。

 その代わり地理や歴史、旅行が好きで、こんな風に文字をしたためることが出来るのですから、人間、何かしら取り柄はあるものです。

 私の高校は男子校で、1クラス48名の1学年10クラス。それが1年から3年まであるので学校は、のべ1,440人の男子高校生で溢れかえっていたのです。逆にお隣の高校は同じ規模の女子校だったので、1,440名の女子高生で溢れかえっていたことになります。
 いまでは双方が共学化されているのですが、たまたま母校に用事があって行ったことがあって、そのときは3年生だけが男子のみで、1年、2年にはすでに女子が入学していました。文化祭以外に自分の高校時代には学校の中で目にすることなかった女子の姿を見、聞くことのなかった女子の声を聞くと、ちょっと不思議な気持ちになりましたね。 

 さて、私の高校では2年の2学期になると3年のクラス分けの話が立ち上がります。大学受験を見据えたクラス分けで、文系クラスと理系クラスに分けるのです。そのときの学年によっては、文系クラスの方が多かったり、理系クラスの方が多かったりしますが、数学や物理の出来ない私は当然に文系クラス希望で、私たちの時には、文系と理系が半々だったとき臆していますが、間違っていたらごめんなさい。

 「オブシディアンの指環 1 記憶の欠片」では、この辺りのことが題材になっている場面があります。経験というのは、大事ですね。

 そして3年の秋ともなると、大学受験が目に見えてきます。
 私たちの時には、共通一次試験がありました。いまでいうところの「大学入学共通テスト」ですね。当時、この共通一次試験を受けるために、いわき市から福島市にある福島大学まで行かなければなりませんでした。
 私の記憶が正しければ、私たちは福島市の飯坂温泉街の旅館を宿舎に受験に臨みましたが、部屋は大部屋ですし、温泉旅館ですし、もう氣持ちは旅行です。
 1日目の試験が終わって、宿舎のあちらこちらで答え合わせをしているのですが、耳に入ってくる「解答」が、自分の解答とことごとく違っていて、加えて私の気分は完全に旅行モードですから、2日目の試験対策などあってないようなものです。
 燦々たる結果で私の共通一次試験は終わりました。
 東京の私立大学も2校、受けたのですが、いずれも失敗。
 私は高校の友人たちの中で唯一、現役での大学受験に失敗。
 親と相談した結果、私は1年間のみ、浪人生活を許され、東京の予備校に通うため家を出ました。昭和59年(1984年)3月のことです。

 余談ですが、私が高校2年のとき、両親が申し込んでいた区画整理事業の保留地公募が当選して、両親にとっては最初で最後のマイホームを建築し、その年の秋に私は国鉄の官舎を出て新築の家に引っ越しました。
 高校卒業と同時に私は家を出ましたので、その家に住んだのは僅か1年半でした(この家のことについては、後日、記事にしたいと思います)。

 浪人生活に私が選んだのは東京の大塚にあった武蔵高等予備校でした。
 「でした」というのは、残念ながら、いまはもう、存在していないからです。
 予備校の寮が東京の田端にあって、私は生まれて初めて「定期券」を、それも山手線の定期券を持って通学することになりました。

 私の部屋は4人の相部屋で、新潟の魚沼、栃木の鹿沼、そして千葉の佐倉から来た人たちと一緒になりました。予備校の寮に入寮した日だったかどうか、記憶は定かではないのですが、その新潟の子と一緒にデスクに置く照明を買いに行こうということになり、寮の夕食が終わった午後7時過ぎに山手線に乗って秋葉原まで出かけたのです。

 福島の田舎育ちの私にとって、午後7時過ぎに電車に乗ってどこかへ出かけるというのは初めてのことでした。そもそも、そんな時間に出かけるという概念がなかったのです。だから、中学生くらいの子どもが一人で電車に乗っているのを見て本当に驚きました。
 初めての夜の秋葉原は、夜にも拘わらずどこもかしこも明るくて、信じられないくらいの人がいました。新潟出身の彼は、何やら店の店員と話をしていて、その様子は都会に慣れている印象でした。そのとき彼が何を買ったのか、いまでは全く覚えていませんが、私がそのときに買った電気スタンドは、大学時代にもずっと使い続けることになりました。

 予備校には名物先生がいて、一人は古文の先生。当時、ぐるくん先生と呼ばれ、古文解釈の本も出していました。私は、文系志望にも拘わらず古文・漢文が全く分からず、辛うじて出来たのは現代国語と地理、歴史だけ。高校卒業後の私は、就職してからいまでも、この3教科のみで生きてきたと言っても過言ではありません。
 もう一人の名物先生は英語の文法の先生で、名前はすっかり忘れてしまいましたが、毎月1曲選定して、英語の歌詞を強制的に覚えさせるのです。
 彼が選んだ4月の課題曲はビートルズのHonesty(オネスティ)。

If you search for tenderness
It isn’t hard to find
You can have the love you need to live
But if you look for truthfulness
You might just as well be blind
It always seems to be so hard to give

優しさを探せば
見つけるのは難しくない
生きるために必要な愛は手に入る
でも真実を探せば
盲目になるのと同じ
与えるのはいつもとても難しいように思える

Honesty is such a lonely word
Everyone is so untrue
Honesty is hardly ever heard
And mostly what I need from you

正直って本当に孤独な言葉
みんな嘘ばかり
正直なんてほとんど聞かれない
それはほぼ君に求めたい事なんだ

 なんとか英語が出来るようになりたい。その想いは強かったんでしょうね。
 田端の寮の屋上でサンシャイン60や新宿の夜景を見ながらオネスティを暗誦していたことを思い出します。結局、全部を暗誦出来ずに、5月、6月と次々と繰り出される課題についていくことが出来ず、苦手な英語を克服することなく、年が改まった2月、私は2回目の大学受験に挑みました。

 受けたのはいずれも地理学科のある大学6校。
 3勝3敗で、私は東京を離れ、京都の立命館大学に進みました。
 そして、この大学4年間で私は「文章を書くこと」に目覚めていくのです。

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